トーチューによると(Norickの死について

なかなか繋がらないトーチューのサイト。
やっと、たまに繋がるようになった

有料部分なので微妙だが、現状情報が少なすぎるので 引用してみた。

事故直後意識はあったのですね・・・

 

“ノリック”の愛称で親しまれてきた日本一の人気ライダー、阿部典史さんが7日、川崎市内で交通事故死した。享年32。ロードレース世界選手権で活躍し、日本GPを含む3勝を挙げて世界のレースシーンにその名をとどろかせた。今年から全日本ロードレースに復帰し、7月の鈴鹿8時間耐久ロードレースにも初参戦して話題となっていた。全日本ロードを盛り上げるため、ひと肌ぬごうと張り切っていた矢先の突然の事故。ノリックを応援していたファンの悲鳴が聞こえてきそうだ。

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関係者によれば、この日、ノリックは横浜市の友人を訪ねたあと、川崎市を走っていて事故に遭った。ノリックは日本ではレース以外で2輪車に乗ることはなかったが、今年大型スクーターを知人からもらってとても喜んでおり、今回もそのスクーターに乗っていたようだ。

ともあれ、ノリックは全国のライダーの太陽のような存在だった。父は川口オートのスター選手の光雄氏(58)。1975年9月7日、東京都に生まれたノリックは父の薫陶を受けて5歳からポケバイに乗り始め、ミニバイクを経験したあと、15歳で渡米。ダートトラック、モトクロスなどを経験し、16歳になるのを待って国内のロードレースに出場した。

93年に史上最年少の17歳で全日本最高峰クラスの500CCクラスにデビューし、同年18歳で史上最年少のチャンピオンに輝いた。翌94年には世界への挑戦を開始。ロードレース世界選手権(WGP)500CCクラスにデビューし、95年からフル参戦を開始。96年の日本GP(鈴鹿)で快走を演じ、日本人として14年ぶりに同クラスの優勝を果たした。その後もトップライダーとして活躍、世界王者のV・ロッシもデビュー当時はノリックにあこがれ、自ら「ろっしふみ」と名乗るほどファンが多かった。

その後もノリックは99年リオGP、00年日本GP(鈴鹿)を勝って通算3勝。17回も表彰台に上るという輝かしい戦績を残した。

06年にはスーパーバイク世界選手権(WSB)に出場したあと、今年は全日本ロードレースに復帰、JSB1000クラスにフル参戦して最高位3位と健闘していた。7月に行われた鈴鹿8耐にも初出場し、結果は9位だったが、ノリックの参戦効果で大会が盛り上がったと言われた。9月30日には岡山国際サーキットで行われたJSB1000の第6戦に出場し、6位入賞を果たしたばかり。WGPは一貫してヤマハに乗ってきた。

世界で戦ってきたノウハウを生かし、低迷気味の全日本を活性化したいと燃えていたノリック。事故直後には意識があったという。志半ばの32歳で事故死するとは、本人も想像できなかったに違いない。

7日午後6時20分ごろ、川崎市川崎区大島の市道で、阿部典史さんが乗る500CCの大型スクーターが、急転回した横浜市鶴見区東寺尾1、会社員千野智彦さん(51)の4トントラックの側面に衝突。阿部さんは市内の病院に運ばれたが、胸などを強く打っており、約2時間半後の同8時50分ごろ、死亡した。

神奈川県警川崎署の調べでは、千野さんのトラックがUターンしたため後方を走っていた阿部さんの大型スクーターがトラック右側面の前方部に衝突したと見られる。同署で事故原因や阿部さんの死亡原因について調べているが、事故現場は片側2車線の直線道路でUターンは禁止だった。同署は自動車運手過失致死と道交法違反の疑いで、千野さんから任意で事情を聴いている。千野さんは清涼飲料を配送中で道を間違えたことに気付きUターンしたらしい。

事故発生当時、阿部さんは意識があり、救急隊員に名前などの受け答えをしていたという。

▽阿部典史さんと一番親しかったGPライターの遠藤智氏
「何といっていいのか、まるで実感がわいてこない。病院に行って顔を見るまでは……。一報を聞いて、彼の父親・光雄氏に電話を入れたが、“遠藤さん、ノリ、逝っちゃったよ”と、当然のことながら混乱している様子だった。そんな状況で、事故の経緯を分かる範囲で説明してくれたが、今は、ノリック、何やってんだよ! というのが正直な気持ち。まだ信じられないし、僕も混乱している。顔を見てから自分の気持ちを整理したい」

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