今日は慰霊の日。
沖縄戦が終結した日である。
僕らの世代は、学校や家庭などで戦争の話を聞かされる事が
比較的多かった。
高校の時、定年間近の担任は斜視(もしくは義眼か?)
だったのだが、その先生が慰霊の日を前に、自らの戦争体験を語ってくれた。もちろんその目についても・・・・
よく聞く沖縄戦の悲劇で、防空壕の中で泣き叫ぶ乳飲み子を、
鬼畜米英に見つかるからという理由で、殺してしまった話がある。
子を持つ親からすれば、戦争の野蛮さ、非情さをこれ以上なく
感じるエピソードである。
人生には「たられば」はない。
とよく言われる
今、自分自身が生きてる世界は結果論であって、
あの時○○してたら・・・
あの時××してたら・・・
などと思い返すことは、枚挙にいとまがない。
もし、あの時勇気を振り絞って告白していれば・・・
もし、あの時代に生まれていれば・・・
もし、あの時もう少し早く家を出ていれば・・・
もし、あの時あんなにアクセルを開けなければ・・・
などなど。
考えれば考えるほど、「たられば」が出てきて
まるで「IF」の海で溺れているようなものだ・・・。
そういう妄想していられるのは 世界が平和で
僕が選んできた「IF」が直接死に関わってきてないから
であって、死亡事故を起こして、死んでたりしてたら妄想すら出来ない
そこで冒頭の、防空壕での悲劇に戻る。
僕の母は糸満市出身である。
戦中に生まれたから、本人に戦争の記憶はもちろんない。
だから本人から戦争の聞いた事がなかったが、僕が結構な年になってから、母の長兄からいろいろ聞かされた。
母の誕生は昭和19年10月25日。
俗にいう「十・十空襲」のすぐ後で、かなり空襲が酷い中で防空壕の中で生まれたらしい。
それから空襲、地上戦と戦争はエスカレートしていくことになる。
まさに冒頭の悲劇の犠牲者にならなかったのは、
壕にいた人たちが理解のある人だったのか、
乳飲み子とは名ばかりで、親も栄養状態が悪かったため
母乳は一切でなかったらしく、砂糖水だけ与えられていたために
泣き叫ぶ元気も無かっただけだったのか・・・
本当のところは分からない・・・。
あの時、いろいろな「IF」に助けられ
母が戦争の犠牲者にならなかったために、僕はこの世に存在している。
大学まで出て
小さい職場ながら仕事にありつき
結婚して
可愛い子供も授かり
その時一番欲しかったバイクを新車で購入して
早朝にツナギを背負っては、平和な沖縄の田舎道でヒザを擦る。
僕が存在している「IF」に感謝しながら
平和を噛みしめながら、これからも生きていく。
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