轟の壕に呼ばれた・・・

突然思い立ち轟の壕に行ってきた

終戦記念日の2日前
糸満市にある轟の壕へ行ってきました。

なんでこの日に突然いったのかよくわかりませんが
呼ばれたんでしょうね

翌日に発症する痛風発作の前兆の足首の違和感がある状況だったのに・・・

場所は地図と画像で察してください

入り口の階段付近には案内看板などは一切ありません。

ここであっているのか?
半信半疑で進んでいきます

看板がありました。
こちらの壕は別名「沖縄県庁最期の地」と呼ばれている。

通路にガジュマルのヒゲが伸びてて、いきなりおどろおどろしい
一人で行くのはオススメできないです(一人でいったけど)

階段は整備されていますが、相当傾斜はキツイです
途中にホースがまたいでいたり、ぬかるんでいたりと足元は悪いです。

ちゃんとした靴じゃないと危険。

どんどん降りていきます。
すり鉢状というか、蟻地獄のような地形です。

写真じゃ伝わらない急傾斜

上の壕と言われているところの入り口。
暗いけどストロボ焚くのはなんだか気乗りしなかった・・・

すでに重苦しい雰囲気が漂う

蟻地獄の底まで降りると
人一人が縦にギリギリ入れるぐらいの穴が

わかりにくいですけど
写真中央のパイプが通っている穴ですね

階段があるからどうにかお尻付けなくても入れますけど、かなり狭い

壕内は真っ暗で、LEDライトもあまり役に立たず・・・
ストロボを炊く設定に変更する余裕もなく、写真撮ったのはこの一枚だけ

壕自体は100mほど長さあるみたいだけど
どうにか行けたのは入り口から20mぐらいだろうか

糸数のアブチラガマもそうでしたが
壕内は水の流れる音が響き渡ります。

ポンプで汲み出してるらしい。入り口のホースはそのためにあるようだ。

長時間の一人での滞在は気分的に難しく

狭い口から抜け出し、ダッシュで退散

下から見上げた景色は
廃墟マニアだった自分からすると、美しく感じてもおかしくないはず感じですが
現地ではそう感じる余裕は全く無かった・・・

今見直すと
ダイナミックレンジの広いちゃんとした一眼レフカメラで撮ればよかったと思うけど
そんな重くて邪魔になるのを持っていく余裕は一切ない。

ココからの記憶が曖昧

なんだかココからの記憶があいまい

特に怖いとか一刻も早く立ち去りたかった
という気持ちは無かったはずなんだけど

気づけば急傾斜の階段を、全力で駆け上っていた・・・

登ってる途中に太ももが張ってきて膝から崩れ落ちそうになる
運動している最中から翌日以降の酷い筋肉痛が予想される感覚は久しぶりだ

仕事上、階段を登るのは人よりは多いと思う
階段を登るとき少しスピードを落としたり、少しだけ休憩を入れたりすれば楽になるのは分かっている。

他の人は全くいないからマスクも外せばいいのに
それもせずに一心不乱で駆け上る

息が激しくなって声が出るほどゼーゼーしながら
やっと一番上までたどり着いた。

100mほど離れた車に到達しても、一向に落ち着かない呼吸

なんでここまで急いで駆け上がったのだろうか

なんだかよくわからない

桁違いの「どんより」感

ここの事を書いているブログを見ていても
轟の壕は他の戦跡とは違う空気があると書いているところが多い。

他は山の奥にあっても明るくて爽やかな場所が多いけど
ココだけは幹線道路のすぐ近くにあるのに関わらず、重苦しい空気が漂ってると書いてる人が多い。

確かに
渡嘉敷島の集団自決後とか
読谷のチビチリガマ(こちらも集団自決があった場所)
も一人でいったけど、たしかにこちらは段違いに空気が重い感じがする。。。

同じ壕内に入る糸数のアブチラガマでさえ

こちらと比べるとすんなり入れた気がします(ガイドと一緒だったからなのか・・・)

平和教育で教わった話のソースはここの話だった!

学校で習う沖縄の壕での悲劇の代表的な話がありますよね?

例えば

  • 壕に避難してたら、日本兵に食料を脅し取られた
  • 壕内の環境の良いところを占拠され、湿気の多いぬかるんだ場所に追いやられた
  • 投降を禁止された
  • 赤ちゃんの鳴き声がうるさいと咎められ、仕方なく母親が赤ちゃんに手をかけた

などなど…

おそらくこの本がソースになっているのが多いと思います。

こちらのサイトでも大変詳しく纏められています。

同じ時期に
別の壕ですが、赤ちゃんとして過ごした私の母のことを考えると
なんとも言えない気持ちになります

沖縄の教育は偏向しているのか

よく、沖縄の教育は偏向しているとかいう話を言う人もいますけど、果たしてそうなんでしょうか
体験者が忘れてしまいたい、酷い体験を声を絞り出して語った言葉を無視はできません

確かによく聞きますよ
米軍よりも日本兵の方が住民に対して酷い行いをしたとか
軍は住民を守らないとか

それに対して
これが偏ってるとか
お国のために命を掛けた御霊に失礼だとか

人間の捉え方なんて人それぞれですからね
いろんな考えがあるのは、どちらも否定できない

でも事実に目をそむけてはいかん

あとよくある論争で
集団自決に軍命があったのかどうかだとかね

そうせざる負えなかった当時の状況がおかしいんだよ

話の本質はそこじゃない

自分の考え

最近、なぜだか思い立ったら戦跡を巡ってる

先日、病気で亡くなった友とそういう所の情報交換をしたり
実際に彼が晩年病気が発覚したあとに、県内の拝所だったり戦跡だったりを巡っていたので
どういう気持で足を運んでいたのか、少しだけ追体験したい気持ちがあったりもする。

そんなに詳しくもなく
図書館で書籍を片っ端から読むとかではなく、ネットでの情報収集が多いけども
学校とかで習ったとか、今まで伝聞した話だけではなく

なるべく細かく戦況の流れを把握したり
日本軍の偉い人の考え方とか人柄だとか
アメリカ軍から見た日本軍の戦術論だったりとか

なるべく広い視点で、自分なりに沖縄戦を調べて見たいと思った

そこでおぼろげながらに見えてきたのは
やっぱり戦争を始めた人も、巻き込まれた人も人間で
それぞれの考え方の元に行動したんだなということ。

人それぞれに苦しい世界を必死に頑張っていた事実。

コロナ禍で思う

蔓延し、止まらないコロナウイルス

コロナ禍のなかで、
同じく国難であった戦争を重ね合わせて(レベルが違いすぎるかもしれないけど)思うのは

こういう大変な世の中になればなるほど
人間の本性というものが出てきてしまうものなんだなということ

最近でも
冷静さを欠いたり、儲けるために
マスクや消毒液、はたまたトイレットペーパーを買い占めるひとたち

マスクしてない人を直接罵りトラブルなったりとか

医療従事者やその家族を差別するとか

もちろん助け合ったり、心温まるようないい話もいっぱいあるんだけど
醜い話をよく耳にするよね

戦争の時は今よりもっと極限状態


狭い壕にすし詰めで、もちろん風呂なんて誰も入れないどころか
糞便の匂いや、血の匂いや死体の匂いが混ざり合う空間
そんな不潔極まりない、換気の悪い穴の中に長期間入らざる負えないなんて

ホント、生きるか死ぬか究極の状況ですよね

そんな中では
この轟の壕で悪事を働きまくった
大塚曹長なる人が率いる日本兵の集団も、
大勢の日本兵の中の、ごく一部の本性が悪い人たち(いつの時代にもいる)だったんだなと
その他の日本兵はそんな人ばっかりじゃなかったと信じたい

そういう普段は見せない人間の酷い部分が出てきてしまうほど
極限状態に追い詰められ、人間が人間らしく行動できない
これが戦争なんだなと

だから決して繰り返してはいけない
だから事実から目を反らしてはいけない

ちゃんと自分の頭で考えて調べて
その地を実際に踏んで、空気を吸って考えないといけないなと。

戦後75年といいますが
48歳の自分が生まれるたった27年前の話ですよ。

今の時代に置き換えると
27年前は21歳の大学3年生の1993年
この年齢にになると遠い昔でもない

  • Norickが全日本にデビューしてチャンピオンになった年
  • ZARDの負けないでがヒットした年
  • 逸見政孝アナが亡くなった年
  • Jリーグが始まった年
  • 米不足でタイ米が出てきた年

全部記憶に新しい

自分が生まれるたった27年前に起きた悲劇なんですよ

決して昔の話ではありません

だから絶対に繰り返してはならない
ちゃんと歴史を直視して、自分なりに噛み砕いてちゃんと活かしていかないといけない

コロナウイルスは人類がまだコントロールできない天災だけど
戦争は人間がコントロールできるはずだから。

と終戦記念日に仕上げたかったブログを
痛風の痛みに耐えながら2日遅れで書いてUPするという・・・

健康が一番ですなぁ

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